
クトゥルー 魔界監視局
三蔵法師
さんぞうほうし
別名
●陳玄奘(ちんげんぞう)●玄奘(げんじょう)
●玄奘(げんじょう)
●陳緯(ちんい)
唐の名僧。
河南省Y(こう)氏県に名家の子として生まれる。生まれた年数はいろいろ諸説があり、
599年や600年や602年といわれている。
本名、「陳緯(ちんい)」。
十三歳の時僧となり、修行に励み、やがて高僧たちから
「そなたは釈迦千里の駒。やがて必ず釈尊の教えを八方に輝かすであろう」
と誉められたが、当人は仏説の各人各様で違っていることに悩んでいた。
三蔵は「釈迦」の本当の教えが分からなかった。
意味が曖昧で、三蔵の抱いている仏教に対する根本的な疑問さえ百ヵ条以上もあるのに、
誰に聞いても、独自で研究を重ねても分からない。
ここにいては(中国)その疑問を解く事は不可能である。
仏教発祥の地インドへ行って本当の経典を学び、
中国へ持って帰ろうというのが、
『西遊記』の天竺へ経典を取りに行く、という動機の原典である。
ここでは、まず、『西遊記』の方の三蔵を紹介しよう。
簡単なものであるが。
旅の目的地は、長安の都から、天竺、西天の大雷音寺までの十万八千里を歩くこと。
そして、太宗皇帝の使命を帯び、経を取りに行く。
性格は慈悲深い。
しかし、物忘れもあるらしく、「大白P(だいはくげん)」という老亀の頼みも、
釈迦如来に経をもらった喜びで忘れてしまったらしい。
服装は金襴の袈裟を着ている。
そして、彼は常に「観音菩薩」に守られている。
またよく、妖怪にさらわれる役を持っている。
この肉を喰い不老長寿を狙う者は多い。
実在する「三蔵法師」=「陳玄奘(ちんげんじょう)」は、
やはり、インドへお経を取りに行く役目を持つ。
しかし、太宗李世民(りせいみん)に出国願書を出しても、
「国法上許さず」と却下される。
三回も出したが、許可が下りなかったので、
「玄奘」は決心して、国法を破り、
たった一人で、長安を出発した。
「玄奘」が西暦600年うまれの説を取ると、
当時、二十九歳。
貞観元年(629年)秋八月。
天山南路からインドに入り、
マガダ国のラージャグリハ
(王舎城、新・旧2ケ所あり、「玄奘」の滞在した方は、新王舎城)
の北、ナーランダ−(那爛陀)寺のシーラバドラ(戒賢=かいけん)法師や、
その他の者について学ぶ。
645年帰国。18年経ったのである。
持ち帰ったものは仏舎利(ぶっしゃり)、仏像などもたくさんあったが、
「お経」だけで、『西遊記』の中の話しよりも遥かに多く、
520夾(きょう)・657部もあり、
運ぶのだけで、二十二頭の馬が必要であった。
太宗皇帝は喜び迎えて優遇を極めた。
「玄奘」はその勅命(ちょくめい)によって
『大唐西域記』を著し、もってきた経を中国語に訳す事業に後半生をささげる。
と、現実の世界の「三蔵法師」であるが、
現在の『大唐西域記』『大慈恩寺三蔵法師伝』『続高僧伝』などでも、
すでに、彼は神秘化され、幻妖な奇蹟に満ちている。
天竺へ出発する直前、スメールコ山(須弥山=しゅみせん)に登らんとして、
石の蓮華が波間に浮かび、
身をおどらせれば山頂にあり、絶景は言語につくしがたい、という夢を見たと伝えるのも、
その一つである。
出発しようとして「玄奘」が、
衆僧に向かい
「この洪福寺の山門の前にある松の枝が東を向いたら、私は帰ってくるだろう」
と自ら予言したというのもその一つである。
唐代の諸書にも、
「沙河に至りて諸悪鬼に逢う、奇状異様、人の前後を繞り(めぐり)、
観音わ念ずれども去らしむる能わず、舌を弾じて心経を誦すれば(しょうすれば)皆散ず」
あるいは、
「行いてZ賓(けいひん)国に至れば道、
険にして虎豹ありて過ぐべからず、
奘、計わ為すを知らず、
乃ち(すなわち)房門を[して(とざして)坐す」
など『西遊記』を思わせる記述が散見できる。
砂漠に倒れ伏して「深沙神(しんしゃじん=沙悟浄の前身)」の
示現に逢うなどは、その最も著しい例である。
もちろん「玄奘」は深く仏菩薩に帰依する信仰者であった。
インドのナーガラハ−ラ国についた時、
「釈迦」が「ゴーパーラ竜王」を鎮めたという岩窟があって、
今なお「釈迦」の姿が残っているというが、
滅多に見られないと聞いて、「玄奘」は拝みにいった。
途中、5人の山賊にあって、
「俺たちが恐くないか」
と、刃物を突き付けられたが、
「仏を拝しにゆくのに猛獣でも私は恐くない。
まして、そなた達は人ではないか」
と、「玄奘」が自若(じじゃく=落ち着いている事)としているので、山賊達は、
「こいつは面白い事をいう坊主だ。
そんなら俺たちも拝みにゆこう」
と、一緒についてきた。
岸壁に向かって二百回も礼拝すると、
ありありと「釈迦」の姿が現れた。
「釈迦」は赤黄色の袈裟をまとい、
蓮華座に座っている下の方はよく見えなかったそうである。
アヨーディヤーで「玄奘」は「シヴァ」大神の妃、黒女神「カーリー」しも呼ばれる、
「ドゥルガ−」女神を奉ずる賊たちに掴まり、
人身御供にされそうになる。
「玄奘」はそういう危急のさいにあって「弥勒菩薩」を念じ、
「ねがわくは来世において菩薩に仕えまつらん。
悟りに達したのちは再び地上に生れて、
この悪者たちをはじめ、多くの人々を救うようになさしめ給え」
と祈願した。
すると「ドゥルガ−」女神の祭壇に供えられ、
賊たちの刀はすでに抜かれているのに、
「玄奘」の身はスメール山上の登り、
トゥシタ宮(兜率天=とそつてん)にあった。
妙法台の上には「弥勒仏」が坐し、
「天神」たちがそのまわりに並んでいるのが見えた。
「玄奘」は我が身の危険など忘れはてて法悦した。
地上ではガンジス河の水が沸き返り、
船はくつがえって、
賊たちはそれを「玄奘」の法力で現れた異変と信じて恐れおののき、
この中国(チーナ)から来た僧を解放した。
このような「玄奘」の危難がしばしば『西遊記』に反映している事は言うまでもない。
しかし、事実は小説より奇なりとは少し違うが、
実在した方が勇ましく、
『西遊記』では、女々しい坊主になっている。
ナーランダ−寺で「玄奘」は5年も釈尊やアショーカ王の遺蹟を巡拝し、
かつ勉学にいそしんだが、
シーラバドラ長老は「玄奘」が来るまで、二十年以上もリウマチの発作で、
死ぬほど苦しんでいた。
さすがの修行を積んだ老師でも、
自殺未遂をするぐらいであったという。
ある夜、夢に三人の「天人」が現れ、
「そなたの苦痛は前生の罪によるのであるから、忍ばねばならぬ
近く中国(チーナ)から一人の僧が来るから、
そなたは誠心そのものを教えよ」
と告げた。
その三人の「天人」のうち、一人は黄金色で
「マンジュシュリ−(文殊菩薩=もんじゅぼさつ)」であった。
一人は瑠璃色で、
「アヴァロキテーシュヴァラ(観音菩薩)」であった。
三人目は銀白色で、
「マイトレーヤ(弥勒菩薩)」であった。
三人はそれぞれシーラバドラにそのように紹介した。
恐れ慎んでシーラバドラがそのお告げを承ると、
三人は消え、リウマチの発作は嘘だったかのように止まり、
やがて「玄奘」がナーランダ−寺を訪れたそうである。
「玄奘」は特に「彌勒」に帰依していたようであるが、
「文殊菩薩」も現れて未来を示した事があった。
ナーランダ−寺の境内に佇んでいる夢のうちに、
「玄奘」は一大仏教大学ともいうべきその大寺院が、
廃寺と化し、ただ一頭の水牛が繋がれているだけで、
何千人もの僧徒がいなくなっているのを見た。
中央の幼日王院の上に金色に輝く神人が立っているので、
引き上げて頂こうと手を差し伸べるのだが、
「そなたは過去の罪業いまだ尽きず、
ここまで引き上げてやる事はできぬ」
と神人は言った。
「われは文殊菩薩である。
早く祖国に帰るがよい。
十年の後には戒日王(シーラーディチャ、ハルシャ大王)は死んで、
天竺は戦乱の巷となるであろう」
こうして、「文殊菩薩」は「玄奘」に帰国を促した。
帰国後「玄奘」は訳経僧として後半生を送った。
大宗、高宗、則天武后はいずれも「玄奘」に帰信していた。
「玄奘」の名声は海を渡り、日本にまで響き渡った。
彼は、六十三歳で大往生を遂げたという。
父の名前は陳光蕋(ちんこうずい)。
出身
中国
出典
●『玄奘三蔵』 前嶋信次 岩波書店
●『中国妖怪人物事典』 実吉達郎 講談社