拾 ★ガーネット★

 

 

 

私の書いた二遍の詩。

見つけたのはあの街だった。

 

私の住む街は四季というものがない。昔はあったのかどうかも知らない。

幼少の頃なのだが、私の住む街には草木の芽吹く季節、日光が肌を焼く季節、木々達の衣替えの季節、白い死の季節…がないという事を親から聞いた。

私はそれは映画や絵本でしか見た事がない。

だから、その季節というものがある場所が存在するという事も疑っていた。

今となっては『節』は自分の中で作るものであると感じている。

私は自分に5つの『節』を作っている。

大患の節。

精霊の節。

埋夢の節。

妖夢の節。

ガーネットの節。

大患の節は字のごとく、体に著しく病を呼びやすい時期であり、心身共に病む。非常に注意しなくてはならない時期であり、私はここで何度も精神を死なしている。今で何人目の私なのか。

精霊の節。私はこの時期が一番好きだ。心も穏やかで、風が肌を撫でる感触、星の美しさ、常人では狂いそうなほどの静寂、すべてが有り難く感じる。きっとこれはこの街の精霊がきまぐれで、剥がれかけたポスター、ゴミ箱、吐き捨てられた痰でさえもエナジーを持っているように思わせるからに違いない。とにかく形無きもの、形有るもの、すべての存在が愛おしく、儚く感じ、それらが見せる刹那の存在感が、この街と永遠に接していたいと感じさせる細やかな要因であるに違いないのだ。

埋夢の節とは、私が途方に暮れる時期をいう。

抱いている将来の希望や、夢が、もやもやとした何かに埋もれているのだ。なんともいいがたい不安を感じるが、ちょっとした事でその不安が晴れたりする。しかし、いつ鬱に入ってもわからない状況は隣り合わせに存在している事も忘れてはならない。とにかくなんともいい難い。情緒不安定という言葉では片付けにくい、無定形というにも言葉足らずな、とても薄気味の悪い時期である。

 

今私は妖夢の節にある。

毎日、この駅で改札を通る人間をじぃっと見ているわけなのだが、仕事をしている感覚はない。

改札を出る人間は大抵、この街の風景に輝きと曇りを同時に抱いた目を絶え間なく巡らせる。

安堵の溜め息を漏らす者、感嘆の呻きを聞かせる者、不思議な笑みを浮かべる者、様々である。

切符を持っている人間といない人間がいるのが不思議だったが、最近では持っていない人間がほとんどだった。

稀に来る切符を持っている人間は私の顔を一切見ずに差し出すので、逆に私は相手の顔を凝視し続けたまま切符を切る。

逆に相手がこちらの顔を見れば、私は顔を見せないように帽子を深くかぶるのだ。

ひどく哀しい仕事だ。

一体、私はなんの切符を切っているのだろう。

そして、最近ではその仕事さえなくなりつつある。

こういう不安が大きくなると妖夢を見る。

今がその時期なのだ。

惰眠を貪り、いつでもよいような出勤時間に目が覚める。

夢は必ず悪夢なのである。が、それだけではないので私は妖夢と言っている。言っているといっても私の中での決め事なのだが。

目が覚めると忘れてしまうのだが、どうもこれが納得いかないのだ。

単なる悪夢なら忘れても逆に喜ばしい事である。だが、私は夢は忘れて何かを覚えているのだ。

その「何か」は全くわからないのだが、とにかく艶かしいような、痛々しいような、そんな不思議な感覚なのである。「艶」と「痛」は私の中ではどうも違う位置にある、感覚であるらしい。

わかりにくいだろうが、まあつまり、まんざら嫌なものでもない要素であり、「悪夢」にカテゴライズするには少し違う感覚なのだ。

勘違いしないでもらいたいのだが、「その気」はない。

ここでいう「艶」は現実の中にない無の中にあるものであり、「痛」は過去のどこかで癒し忘れた「思い出したい傷」なのである。

それは妖しくも、なぜか忘れる事が切なく感じる夢なのだ。

ある時、私は寝床にボールペンとノートを置いた。

目覚めた瞬間はもしかすると夢の内容を覚えているかもしれないからだ。

 

 浅瀬で首の無き人の連なる葬列に遇う

 

陽炎と夏草の野に幾万の神の屍をみつける

 

 

最近の夢のメモである。

素晴らしいと思った。

これは私が忘れたくない痛みの一片であろうはずだし、私の何かを示唆しているものであった。

一見、薄気味の悪い夢の内容にも読めるだろう。

しかし、そんな内容ではない事を私の体のどこかが教えてくれている。

これは夢のメモなどではない。

私の核たる何かが書いた詩だ。

とても不思議に感じたのは、詩の中に「陽炎」と「夏草」という字がある事だった。

陽炎は春の晴天に見られるものだ、と何かで読んだ事がある。

猛暑でも多く見られるものらしいが、このようなものは私はまずこの街で見た事がない。

夏草だってそうだ。

四季のないこの街で、私がこのような夢を見て、このような表現で文章を寝起きに書けるものだろうか。

まるで何かが憑いているかのような完成された一文であるにもかかわらず、その書き手は生気を感じさせない。本当に私の書いたものなのか。

私は何か恐ろしくなってこの二遍の詩の書かれたページを破り捨てた。美しさを残念に感じながら。

 

また切符を持たず改札を出ていく人がいた。

髪の毛の長い、恐いほど美しい女性だ。

できれば彼女の切符を切りたいと思った。好都合と言って良いのか、彼女は私の顔を一切見ようとしないで、改札の前で街をぼーっと見ていた。

私は彼女の顔を見つめる。

透明だ。

比喩ではない。

彼女は向こうが透けて見える。

別に不思議ではなかった。

何かをなくした人が、また、何かを探している人がこの街に来るのだという法則を知らない私ではない。誰に教わるとでもなく知っていた事である。

彼女は何かをなくした為に、『美しい』のであろう。

 

 

ふと今晩の夢もメモを取ろうと思った。

 

 

 浅瀬で首の無き人の連なる葬列に遇う

 

陽炎と夏草の野に幾万の神の屍をみつける

 

 

また同じ夢を見たのだろうか。

この夢の中にどういった「艶」と「痛」があるのだろうか。

 

今日も切符を持たない者が改札を出ていった。

暗い雰囲気の男子中学生だった。

手に持っているのは何の筒だろうか。卒業証書というものか。そうならば彼は何を卒業したのか。

気がつくと彼には目がなかった。

それとも深く窪んで見えなくなっているだけなのか。

彼は改札を出た直後、そこでずっと私の終業時間までただ足踏みをしていた。

振り返らず帰宅する私の背後で、彼の足踏みの音だけが遠くなっていった。

 

また同じ夢を見たようだ。

同じメモが枕元に置かれていた。

 

この日は誰も通らなかった。

駅からは冷たい風が吹いてくる。時々、電車も通らないのに踏み切りが「かんかん」と鳴る。

寒い。

 

 

どうやら毎夜同じ夢を見ているようだ。

私が見ていた妖夢の節に見る夢は、この詩の一つ、もしくは二つなのだろう。

この二つの詩が、一つの夢なのか、二つの夢なのかはわからないのだ。

 

珍しい事があった。

今日は逆に駅の中に入る者がいた。

私のよく知る、そして、よくわからない人物だ。

「ぬるま湯で」

その男は言う。いつも不思議に思うのだが、彼の額の「肉」という文字は毎日色が違うように思える。

「ぬるま湯で」

「親父さん、今日もいい色ですねえ」

お世辞を言う。

「言わん事です、ぬるま湯で」

「はあ、通るのですか?」

親父(といっても私よりも若いかもしれないのだが)は何かを差し出した。

「・・・・こんなにたくさんの切符はいりませんよ」

「めっちゃ、ぬるま湯で」

「はぁ・・めっちゃ・・・」

彼は私に数枚の切符を出したが、すべて彼のチケットではない事がわかった。

この数日間、ここを切符なしで出ていった者たちのものなのだ。

私は久しぶりの大仕事に腕を振るう。

そして、全てを切らせていただいた。

その瞬間に、親父の背後には頭(こうべ)を深く項垂れさせた人たちが現れた。

そして、静かに改札を通って駅の中に消えていった。

私が見た美しい女性や、目のない中学生、またここ数日間で見た「切符のない」通過者達だった。

 

なるほど、この止まったような時間の浅瀬で、彼らは・・・真実を見たのだろう。

私の見た夢はこれだったのか。この陰鬱な雰囲気の人たちは、己を導くモノを失った「頭なき死者」だ。

親父は泣きながら言った。

「ぬるま湯で」

もしだ。もし、この世界がもっと大きなものならば、この街は彼らにとってとても緩やかな流れであり、なくしたモノも見つかる可能性もある「希望の街」なのだ。

見つけようという希望を抱いた者たちはそこへ向かうのに他に目もくれない。

しかし、ここで皆、そういった「なくした者たち」が集まる墓場である事を知るのだ。

サルガッソーの暖かい海は、彼らを本当の屍にしてしまった。

仕方がない事なのだがね。自分が捨てたものは「優しい存在」ではなくなったのだから。

親父は私の背後を険しい表情で睨む。

私の後ろには輝くものがあった。

妖しい輝きだった。

ピジョンブラッドのルビーのような、何かグロテスクな蠢きを見せる輝き。

 

ワタシノ首ダッタ。

 

首の断面がこちらを向いて、まるでザクロのようだ。

ルビーなどではなく、私の「痛」を感じる為の気管が蜘蛛の巣のように張る、ブリリアントカットのガーネットだ。

私はこうして自分にこそ首がないのだと知った。

ずっと見ていた夢は何が見せていたものなのだろうか。

その時から私はこの「白鐸」という街の共存体であり、目である事を知った。そして思考ではない事を。

これからの毎日は落としたものを拾いに来た者たちを、ただ迎えるのだ。

そして、見送る。

そんな私に頭はいらなかった。

しかし、頭は別でもう一つの夢を見ていたのだ。

それが・・

【陽炎と夏草の野に幾万の神の屍をみつけた】夢なのか。

妖夢の節の末には、肉の親父が頭を付ける事を笑って許してくれる。

私という台に乗せられたガーネットは、私の血を通わせると赤く輝く。

そして、その時期は『四季を持つ街々で、神を気取る者たちの朽ちた光景』を見る事ができる。

もちろん、そこにはこの街から切符を切って出ていった者たちも存在している。

だが、とても四季のある街には見えなかった。

誰もかもが寒くて凍えそうな表情をしていたからだ。

朽ちていく「落とす者たち」の街を見ながら何度も何度も恍惚状態になった。

嗚呼、これが「艶」か。

 

もう夢の記録はやめた。

 

私が誰であったかは知らないが、一時期でも、なくしたらしい光景を見る事ができる私は幸せものなのかもしれない。

私は今日も駅の中から吹く冷たい風を感じながら、この四季のない街で、次のガーネットの節を楽しみにしている